風の香りや心地よい音、かすかな味などに、
ふとした瞬間、 記憶や感覚が甦る。
先日、娘のお昼寝の寝顔を眺めながら、ふわっと蘇ってきた小さい頃の感覚。
だれかが言ってたな。
この一生が終わって死んでも また生まれ変わるって。
生まれ変わってまた死んで、ほんでまた生まれ変わってまた死んで。
どこまでいったら終わりなんかな。
終わりってはじめからあるんかな、ないんかな。
そんなことを考えるときは、必ず、
じぶんの手先の感覚、足の感覚、お腹の感覚、いろんな毎日の気持ちなんかが
すごくちいさく、とてつもなくちいさな点みたいに感じて、会陰の辺り(今思えばおそらく第一チャクラの場所)がキュッとなって、こころが虚無感に覆われたものだ。
この、会陰のキュッ、こころに止まり木のない心許ない感覚は、ちいさなわたしに焼き付いている強烈な感覚。
こんな感覚、しばらくずっと、忘れていたな。
でも なにかが、今、この感覚を呼び起こしたんだな。
なにかを明かす ヒントなんだな、と思う。
なにかがふっと記憶のかたちでやってくるのは、そのときに必要だからだと思う。
記憶の糸が切れないように、そおっと、そおっと、辿りながら、
ありのままをキャッチする。
感傷的になるかもしれないし、メランコリックになったりウェットに悲しくなったり、はたまた嬉しい気持ちになったり、ジーンとこころに温かみが増したり。
その記憶によって、今に湧き出る心持ちも、考えも、さまざま。
たいせつなのは、はだかの記憶と出会ったときの、いまの感覚を、ありのままみてあげること。
隠したり、見て見ぬふりをしたり、なかったことにしようと無視したり、しない。
やってきた(やってきてくれた)思い出をきっかけに、いまのじぶんのこころの在り方に気付くことができるし、その今の感覚や感情をきちんと認知することを繰り返し練習していくことで、マインドの偏り(主観的にモノゴトを処理してそれがいつでも正解だとするこころの態度など)にも気づいていける。
甦る記憶から じぶんのありのままのこころの姿を見つめる。
ただ、そこにその姿を置いてみるだけ。
置いていることを、知るだけ。
良いも悪いも、スキも嫌いも、上も下も右も左も、どんな姿でもありのままをみるだけ。
今そのときの感覚や感情に、気付くだけで、十分。
それだけで、十分、なんだな。
やがて、それがきっかけで、なにかが明かされるようになっているんだと思う。
人間としての成熟を追求している人には。
毎年 冷たくフレッシュな冬の気をめいっぱい吸い入れると
大切ななにかを思い出しそうになるのは 、わたしだけでしょうか。
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